町田康『権現の踊り子』

昔筒井康隆の小説を読みながら悪人のようなほっほっほという笑みを浮かべていたが、今は町田康の小説を読みながら同じ笑みを浮かべている。 中編や長編では、語り手=主人公が自らの自堕落さもあって悪夢的な世界に巻き込まれるというパターンが多いが、本書は短編集なので、時代劇もあったりして、バラ...

保坂和志『カンバセイション・ピース』

世田谷の小田急線沿い、おそらく成城か喜多見の木造二階建ての古い日本家屋が舞台。伯父、伯母が亡くなり、空き家になっていたこの家に小説家である語り手の「私」と妻、猫三匹、妻の姪が住むことになり、さらに「私」の後輩の会社(といっても社長、社員あわせて三人)も間借りする。 保坂和志の他の作...

ダグラス・アダムス(安原和見訳)『宇宙クリケット大戦争』

『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの第3弾。発表当初は不評だったそうだが、ギャグは笑えるし、物語の伏線にはりかたも見事だ。3作の中で一番おもしろいかもしれない。 原題は"Life, the Universe and Everything"だが、これが関連するのはエピローグだけだ。邦題のほう...

ウンベルト・エーコ(藤村昌昭訳)『フーコーの振り子』(上・下)

「私が『振り子』を見たのはあの時だった。」 最初、神学的で難解かと思ったが、コミカルなミステリー仕立てで物語は進んでゆく。 卒論のためにテンプル騎士団を研究していた語り手カゾボンはそのことがきっかけで書籍の編集者ベルボ、ディオッタレーヴィと懇意になり、古来からの陰謀や秘密結社をめぐる...

宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー(上・下)』

二年前に上巻だけ買ったものの、あまりの厚さに持ち歩くことができず、積み重ねた本を支える支柱の役割を果たしていた。別の本を探していたらたまたまこれが発掘されたので、ようやく読む気になった。 小学五年生の主人公ワタルの「現世」での生活を描いた第一部の途中までは、子供向けのぬるいファンタ...

村上春樹『象の消滅 短編選集 1980-1991』

アメリカで翻訳・出版された村上春樹の短編集と同じ構成で編んだ日本語版。もちろん英語から訳し直したわけでなく(それはそれで読んでみたいが)オリジナルの作品が収められている。 『ねじ巻き鳥と火曜日の女たち』、『パン屋再襲撃』、『カンガルー通信』、『四月のある朝100パーセントの女の子に...

村上春樹編訳『バースデイ・ストーリーズ』

アメリカを中心とした英語圏の作家の、誕生日に関する短編小説を集めたアンソロジー。すべて村上春樹が訳している。 今この時期に誕生日に関する本を読むことはぼくにとってとてもタイムリーなことなのだ。この本には子供から老人までさまざまな年齢の人物の誕生日が描かれているが、年齢が高くなればな...

サン=テグジュペリ(堀口大学訳)『人間の土地』

かつて、飛行機は人間の身体を空高くひきあげるだけでなく魂をもひきあげてくれていた。 サン=テグジュペリと彼の同僚たちは郵便を世界中に届けるため、新たな航空路を開拓し、嵐の中飛行した。その中で命を落とすものたちもいる。砂漠で遭難してほとんど死にかけることもある。本書ではそんな彼らの半...

多木浩二『ものの詩学 家具、建築、都市のレトリック』

独特な視点からヨーロッパ近代の歴史をたどった本。そういう意味では「詩学」というより「史学」だ。 4章構成。第1章は、椅子やベッドなどの家具の形状に注目して、それがルイ14世時代の王権の絶対化とどのように相互作用をしていたかを明らかにしてゆく。たとえば、椅子の背もたれは王の権威の高ま...

グレッグ・イーガン(山岸真訳)『順列都市(上・下)』

人間がソフトウェアになってコンピュータの中で生き続けるという設定はグレッグ・イーガンでは定番だが、これはその比較的黎明期を舞台にした物語。『ディアスポラ』では外部の1000倍の速度で流れていた時間が、この時代には逆に17分の1の速度で流れている。それも「生前」大富豪だった限れた人...

ロナルド・ドーア(石塚雅彦訳)『働くということ グローバル化と労働の新しい意味』

たとえば砂の上でエサを運ぶアリの上に一滴の水滴が落ちてきたとして、アリにはそれが噴水の水が気まぐれな風で飛ばされただけなのか、それともこれからくる大雨の最初の一滴なのかわからない。それと同様に、毎日働いている中で「働く」ことをめぐる環境の変化を確実に感じていたとしても、その変化が...

コンラッド(中野好夫訳)『闇の奥』

原題は"Heart of Darkness"。『地獄の黙示録』の元ネタであり、T. S. エリオットの『荒地』にもその一節が引用されている、コンラッドの代表作だ。コンラッド自身が船員時代に経験した出来事をほぼそのままなぞった物語だそうだ。 連絡がとれなくなった象牙商人クルツ...

竹内薫『物質をめぐる冒険 万有引力からホーキングまで』

羊でなく羊を形作っている物質をめぐる冒険。どのあたりが冒険かというと、これまでサイエンスライターとして最先端の理論物理の啓蒙書を数多く書いてきた筆者が、「物質とは何か」という哲学の問いに取り組んだところだろうか。 「モノからコトへ」が本書を貫くテーマだ。つまり、古典物理では、この世...

『コンラッド短編集』(中島賢二訳)

コンラッドは風邪薬の名前じゃなくて、19世紀末から20世紀はじめにかけてイギリスで活躍した小説家だ。出身は今のウクライナでポーランド系の家系に生まれ、母語もポーランド語だったようだ。船員として世界各国を回るうちに英語を身につけ、37歳の時に陸に降りて小説家としての道を選んだ。その...

Tom Stafford, Matt Webb『Mind Hacks ―実験で知る脳と心のシステム―』

IT関連でかゆいところに手が届くテクニックを満載したシリーズ、オライリーのHACKSからITではなく人間の脳と心にスポットをあてた本がでた。もちろん単に知識を提供してくれるだけの本ではなくそれを読者が実際に試せるようになっている。 通して読んでわかるのは、ぼくたちが見たり感じたりし...

スティーヴ・エリクソン(柴田元幸訳)『黒い時計の旅』

本土の船着場とダヴンホール島を行き来するあいだ、いつも一瞬だけ、船着場も島も見えなくなる瞬間があった。その瞬間には、霧に包まれて水上に浮かぶ彼の船以外、もはや何ひとつ存在しなかった。空から太陽がなくなっても。国と名のるものがすべて消滅してしまっても、何も変わりはしなかっただろう。...

小川洋子『博士の数式』

数学は美しい。こんがらがった数式を変形していて思いがけずきれいな形になったときにそう感じることがある。そして、そうした数学の美しさは人間の頭の中だけでなく、どこかにリアルに実在しているような気がしてくる。もちろん永遠に。 数学の永遠とは対比的に、「博士」の記憶はきっかり80分しかも...

三浦俊彦『ラッセルのパラドクス ―世界を読み替える哲学―』

Rという集合を「自らを要素として含まない集合」と定義する。このときR自身はRに含まれるだろうか。含まれるとすると「自らを要素として含まない」という定義に反するし。含まれないとすると、「自らを要素として含まない」という定義に合致してしまうのでRに含まれることになり、これまた矛盾だ。...

並木美喜雄『量子力学入門 ―現代科学のミステリー―』

「世の中に不思議なものは何もないのだよ」と京極堂はいうけれど、量子はやっぱり不思議だ。 電子や中性子などの素粒子は波でもあるという。粒子のイメージだとある一点に凝縮して存在しているはずだけど、波だとその存在そのものが薄められて広がっていることになる。波だと考えてしまえば、位置と運動...

ラース・スヴェンソン(鳥取絹子訳)『退屈の小さな哲学』

筆者は1970年生まれのノルウェーの哲学者。 ぼくは退屈というのはあまりきらいじゃなくて、どこか優雅なものだとさえ思っていて、この本を手にとったのも小さくて優雅な退屈を味わえるかなと思ったからだ。だが、筆者が問題にしているのは、ぼくが思い描いたような「状況の退屈」つまり「ある決まっ...