グレッグ・イーガン(山岸真訳)『万物理論』

万物理論

死者を一時的に蘇らせたり、自分のDNAを別の分子で書き換えてあらゆる感染の危険性を0にするなど、バイオ技術が究極まで進んだ2055年、物理学の分野でもすべての自然法則を説明する究極の理論「万物理論」が発表されようとしていた。主人公はこの万物理論に関する会議を取材にきた科学ジャーナリスト。別の長い取材が終わり息抜きのつもりだった彼に、カルト集団の企てる暗殺計画、精神に失調をきたす原因不明の奇病「ディストレス」、バイオ企業の傭兵によるクーデターなど、さまざまな問題が襲いかかる。

と、ストーリー的にもSFのアイデア的にも圧巻なのだが、さらにこの小説は、人間の自由はどこまで拡大できるかという思考実験にも挑んでいる。

まずは性。生まれたままの純男性、純女性に加えて、整形手術や生物学的改造により、強化男性、強化女性、微男性、微女性、転男性、転女性、汎性などさまざま性別が存在するようになっている。また、身体のセックスを変えるのではなく、脳のジェンダーをかえてしまう人もいる。中でも汎性と呼ばれる人たちは「自分の人生が二、三の安っぽい生化学的トリックを中心にして動く」ことを嫌い、性による束縛から自由になろうとしている。

次に国家。会議が開かれるのはステートレス(無国家)という名前の人工の島で、その名の通り政府というものは存在しない。人々はそれぞれ何らかの組合に所属し、そことの契約によって保障を得、気に入らなければいつでもほかの組合に移ることができる。土地は共有で、暴力も略奪もない。まさにユートピアのような場所なのだ。

そして2つのHワード。Health(健康)とHumanity(人間性)。人々はこの2つの言葉を極めて狭い意味にとって、「健康」でない人を強引に治療しようとしたり「人間性」に欠けた人を非難し駆逐しようとする。それを指摘するのは自閉症者が負っている脳の部位の傷をさらに拡大することを認めさせようという団体の幹部だ。その脳の部位(ラマント野)は愛情を感じる能力をもたらすが、その能力は同時に自己欺瞞の能力だという。

「無知カルトはどれも、自分を閉じこめている檻のうちいちばん小さなものを崇拝する。どんな素性に生まれおちたか、どんな性や人種に生まれついたか、歴史や文化の偶然……そして、百億倍も大きな檻があることをわざわざ教えてくれた人がいると、片っぱしから罵倒する。(中略)。体についての最深の真実は、体を束縛しているのは、結局は物理的現象だということだ」という汎性アキリの言葉。

その大きな檻をぼくたちはまだ見つけていない。

最後に翻訳にちょっとけちをつけておくと、asex の訳語は、「汎性」より「非性」とかの方が本来の語義に忠実のような気がする。あと、汎性の人を呼ぶ人称代名詞が「汎」というのは最初中国の人名かと思った。ve, vis, ver を訳したということなのだけど、原文では男性や女性にもこれらの代名詞が使われているそうなので、あえて珍奇な新語を作るより、ふつうに「彼」とか、新語を作るんでも「彼人」くらいにしておけばよかったのではないだろうか。