村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉

再読……のはずなのだか、何を読んだのかというくらい、ディテールはおろか基本的なストーリーさえ覚えていなかった。むしろ読んだのは誰だと問いかけたくなる。覚えていたのは、この作品がおそらく村上春樹の現時点での最高傑作といっていいくらいすばらしい作品だということで、読み終えた今、その記憶が正しかったことが証明された。

「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」という二つの世界の物語が交互に語られる。前者は、静かで自己完結した世界。一角獣が群をなし、壁に囲まれた異界だ。この世界から外に出ることはできない(だから「世界の終わり」だ)。この世界の主人公は自分を「僕」と呼ぶ。後者はいわゆる現実世界。騒々しく、争いと矛盾にあふれている。この世界の主人公「私」は、冒険を余儀なくされる。ふつう冒険は進行にしたがって何かを得てゆくものだが、「私」は少しずついろいろなものを失ってゆく。

いくつか謎は残る。「影」(「世界の終わり」における主人公の分身)は何だったのだろう。彼がたどりついたのはどこだったのだろう。もちろんそれについてはいろいろな想像が可能で、そういう想像の余地が物語を広げてくれるのかもしれない。また、「僕」の最後の選択も疑問だ。ある種の「倫理」に説得されてある行動を選んだはずが、結局それより上位の「倫理」に気がついてそれをやめるのだ(ネタバレしないように抽象的に書いてます)。そこにある自己犠牲的な身振りはどうも好きになれない。でも、それは自分や相手を説得させるための言葉で、実は「僕」はそうすることにより(というかしないことにより)、自分が失ったものや、失いつつあるものをとりもどすことができることを知っていたからこその選択なのだと思う。

特にすばらしかったのは、「ハードボイルドワンダーランド」の最後の24時間の描写だ。ありふれたものたちがそれぞれ固有のかがやきをはなちはじめる。洗濯屋の縁台、かたつむり、爪切り、床に脱ぎ捨てられた服、日比谷公園のビール、晴海埠頭からみる最後の風景。世界が終わろうとして、ようやくそのかがやきに気がつく。でも、それはもとからかがやいていたのだ。

この小説が出版されたのは1985年で、ちょうど日本経済がバブルという頂にむけて破滅的な跳躍をしているときだった。この小説は、その時代の、終わりを予期しながらの何ともいえない幸福感を伝えているような気もする。