池田雄一『カントの哲学 シニシズムを超えて』

カントの哲学

いきなり映画『マトリクス』の話題からはじまるので、とっつきやすいかと思ったが、パラフレーズのためにたちどまることをしない、スピード感あふれる文体で、ついていくのがやっとというより、味わえたのはスピード感だけという状態で最後のページにたどりつきそうになったところで、これでは読んだことにならないということに気がつき、急遽昔読んだカントの入門書を再びひもとき、それから再び本書に手をつけたのだった。

ぼくの基礎知識不足が大きいとは思うが、あるトピックがどういう文脈のもとで語られているを把握しにくいのは、二度目も同じだった。以下、わからないなりにパラフレーズしてみる。

シニカルでない人間は理念やイデオロギーを愚直に実現しようとするとことにより、かえってそれが嘘であることを実地に証明することができる。ところがシニカルな人間は、理念やイデオロギーが嘘であることをもともと知っているにもかかわらず、信じているふりを続け、「その嘘からぬけでて着地するような地面をみずから放棄して」しまう。彼らのアンビヴァレントな態度の裏には、単なる偶然の機会にしかすぎないものをあえて原因と認識する心性がある。つまり、理念は信じない代わりに(感性を通して)自分の「身体」に働きかけてくるものを原因として絶対視し、それに対しとことん受動的にふるまおうとするのだ。筆者はこれを「機会原因論的シニシズム」と名付けている。さて、カントの唱えた、「(認識においては)理性を構成的に(認識をくみたてるために)使用してはならない。理性は統制的に(認識をある方向に向けるために)使用せよ」という『純粋理性批判』における主張はまさにこの「機会原因論的シニシズム」に適合的で、カントこそがシニシズムを完成した哲学者だというのが、筆者の第一の主張だ。そして、この原因とみなされるものこそが「趣味」といわれるものだ。

さて、カントは実践においては理性の構成的な使用の方法を示している(『実践理性批判』)。つまり自らの内なる道徳法則に従えというのがそれで、それこそが「自由」ということだという。道徳法則の認識=自由意志なのだ。これはシニカルな人間を形作るシステムを破壊するような突発的な行動を肯定し、一見シニシズムへ対抗する道をひらくようにみえるが、実はそうではなく、「理性的存在者」という別の仮象をたちあげるだけのことで、かえってシステムを強化してしまう、というのが筆者の考えだ。

ここで話は、理性の統制的使用にもどる。統制的な使用方法の中にもいい方法と悪い方法がある(たとえば似たような複数の自然法則はより高次な視点からひとつにまとめた方がいいなど)。つまり、それを判断するための美学(超越論的美学)が存在していなければならない。ここに、理性をさらに上位から規定するものとして、再び趣味(判断)があらわれる。

趣味は、埋め込まれた個人のプロパティーという意味で受動的でありながら、同時に美学的な判断の能力を示すという意味で能動的だ。しかし、いずれにせよ趣味をめぐって他人と議論する場、政治的な領域は存在しない(余談だが、すべてが趣味の領域に押し込まれてしまえば、議論は成立しなくなる。今この社会ではそれに類する現象が起きているようにみえる)。この趣味判断についてカントが書いたのが『判断力批判』だ。これについても筆者はシニシズムという烙印を押す。「道徳の象徴としての美」というテーゼは、理念に統制されることに人間を導く方便で、シニシズムの強化につながるというのだ。ほとんどすべてが斬って捨てられた中で、ただひとつ残るのが「目的なき合目的性」という概念だ。(実際にはないのに)あたかも目的があるように感じられるもの。われわれはそういうものに美を感じる。逆に、「目的なき合目的性」を積極的に見いだしていくなかで、理性や認識を再構成していけるのではないか。そしてそこにシニシズムからの出口があるのではないか。

といったところが、ぼくがくみとった本書の内容だ。ふう、疲れた。