加藤典洋『敗戦後論』

敗戦後論

本書には日本の敗戦をめぐる評論が三つ収められている。本全体のタイトルにもなっている最初の『敗戦後論』に主たる論旨が書かれていて、残りの二つはその補論的な位置づけだ。

『敗戦後論』では、まず「ねじれ」という現象が指摘される。これは日本に限らず、敗戦という経験をした社会にはどこでもありえることで、これまで善だったことが悪になり、悪だったことが善になる中で、自分たちの価値観が矛盾を含んだものになることを指す。たとえば、日本の場合は平和憲法を武力で押しつけられたこととか天皇が戦争責任をとらなかったことなどに矛盾があらわれている。日本に特有なのはそんな「ねじれ」の存在ではなく、その「ねじれ」が隠蔽されていることだと、筆者はいう。

隠蔽の仕方には二種類あって、ひとつは戦後的価値観を所与のものとして押しつけられたという来歴を無視する左派的なありかた、もうひとつが戦前的価値観を肯定してそれとの連続性においてのみ戦後を評価する右派的なありかただ。どちらも矛盾から目をそむけているという点では同じだ。他の国では左派でも右派でもそれぞれが全体の代表としてふるまうことが可能なのに、日本では左派と右派は議論が不可能で、人格が分裂したジキルとハイド状態にある。それが端的に表れているのが戦争の死者との向き合い方で、左派が他国の犠牲者2000万人に寄り添い国内の(特に兵士としての)死者を無視するのに対し、右派は国内の戦死者を英霊として讃えることにのみ目を向けている。

この統合失調状態を解消する処方箋として筆者が提案するのは、まず国内の戦死者を汚れたものとして追悼することだ。つまり、あなたたちのしたことは間違っていたけど、それにもかかわらず追悼するという、「ねじれ」をそのまま引き受ける態度が必要だという。

この評論は左派を中心にいくつか反論を巻き起こした。それに対するメタな回答として書かれたのが二番目の『戦後後論』と最後の『語り口の問題』だ。

『戦後後論』では、政治と文学を等置して後者の優位性を「間違いうること」というある種の当時者性においているのだが、それをあけすけに語ってしまうと、単なるロマン主義や音声中心主義といわれるものになってしまう。『ライ麦畑でつかまえて』の分析や、太宰を引いた鳩と自由思想の比喩(鳩が飛ぶのに空気の抵抗が邪魔だと思うが、実際に空気をなくしたら飛べなくなってしまう。この鳩=自由)はとても鋭いと思うが、全体を通すと公共性をみすえた『敗戦後論』から私的な領域への退行に思えて、大きな違和感が残った。

『語り口の問題』は『戦後後論』の違和感を払拭してくれた。ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』の「語り口」について分析することにより、共同性から公共性へ抜ける道として共同性の一単位である私性(公共性に属する個人性とは異なる)を経由する道を提示している。簡単にいえば、何かを壊そうと思ったら、内部から揺さぶるしかないのだ。

これらは10年くらい前に書かれた評論なのだけど、今の政治状況でこそリアリティが感じられる議論だと思う。現在、右派が単なる共同性を公共性だと詐称する議論にある程度の説得力があるのに対し、左派がそれに対抗する公共性を示しえていない状況だと思う。どのようにして真の公共性を立ち上げてゆくか。本書に書かれているのがかならずしも正解だとは思わないけど、なにがしかのヒントになるのは確かだと思う。