レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『ロング・グッドバイ』

ロング・グッドバイ

はるか昔、清水俊二訳で読んだことはあるが、上品に食べ残された魚のように、頭とおしりの部分がかすかに記憶に残っていただけで、肝心なところはすっかり抜け落ちていた(村上春樹によれば清水俊二訳にはわざと訳されていない箇所が多くあるらしい)。そのときはシリーズ最高傑作という評価に同意しつつも、のどの奥にひっかかった小骨のように割り切れなさを感じたような気がする。だが、今回村上春樹訳で読んでみてそういう割り切れなさがあるからこそ傑作なのだいうことがわかった。

フィリップ・マーロウというのはリアルな人間というより、ある種の美学を人の形に凝縮したような存在だ。いかなる権威にへつらうことなく、ナイフのようにとぎすまされた言葉と、ときに腕力(腕力に関しては被害者になることの方がずっと多いが)を使って「事件」を解決していく。というより、「事件」の解決は副産物でしかなく、マーロウはただ美学に忠実に行動しているだけだ。その刃先は強いものに対してだけでなく弱いものにも向かう。読者は一瞬その攻撃性にたじろいでしまうけど、マーロウは弱さこそが「悪」をはらんでいることを直感的に理解しているのだ。

『ロング・グッドバイ』ではその美学にほころびがあるような気がしていた。テリー・レノックスという男に対して抱く奇妙な友情と、彼が消えた後の長くセンチメンタルな(かつ血なまぐさい)お別れの儀式。それと最後の短すぎるほんとうのお別れの間に整合性を感じることができなかったのだと思う。だが、今回は村上春樹の訳のおかげで美学を越えたところにあるマーロウの人間性が感じられたせいだろうか、物語はつり上げた一匹の魚のように骨が一本通ったものだった。

訳者とこの作品について書いておくと、小説家としての村上春樹の原点はまぎれもなくチャンドラーにあるということがわかったのだった。気の利いたセリフまわし、登場人物の造形、究極まで洗練された悪口雑言、注に浮いたような比喩、綿密な情景描写。これらはすべてチャンドラーに由来するものだ。またチャンドラーのほかの作品が読みたくなってきた。ほかの作品も新訳してくれないだろうか。