思想地図 vol.1 特集・日本

思想地図 vol.1 (1) (NHKブックス 別巻)

東浩紀、北田暁大両氏編集による論文誌の体裁をとった書籍あるいは、書籍の皮をまとった論文誌。第一弾は「日本」という一見とらえどころのなさそうなテーマだが、大きく、ナショナリズムと公共性の問題、およびサブカルチャーという二つの核をめぐる論文、討議録が掲載されている。

サブカルチャーは門外漢なので、前者について、乱暴にまとめるとこんな感じだろうか。

立場の違いを越えての共通認識は、グローバリゼーションの到来で、いわゆる国民国家という形はターニングポイントを迎えていて、日本でもまた、国家が担っていた公共性というものがリアリティを失いつつあるということ。

白井聡氏はその証左として、国民が分断化されセキュリティの保護のみ国家に要求するようになってきていることをあげ、「国民なきナショナリズム」と名付ける。それに対して中島岳志氏は「方法としてのナショナリズム」すなわち国民主権を実現するための動機付けとして草の根的な下からのナショナリズムを利用するという。国家とはフィクションではなく社会における暴力への権利の源泉となる実体だと強調する萱野稔人氏も同じようなスタンスか。これに対して東浩紀氏は、これまで公共性に対する関心なしでもうまくやってこれたのだから、いっそそれを推し進めて、リバタリアニズムが説くような最小国家にして、国家とは別の形で公共性を担保でないかという問題提起をする。突飛に聞こえるけど、それは、仮にナショナリズムを通じて公共性にたどりつけたとしても、誰がそのメンバーたり得るのかというメンバーシップ問題にぶつかってしまうことを意識しての発言で、本質をついている気がした。というのが、冒頭の討論『国家・暴力・ナショナリズム』。同様の議論は後半の鼎談『日本論とナショナリズム』にも引き継がれる。

関連して、白田秀彰『共和制は可能か?』では、日本で民主的な共和制を可能にするには、(戦前のように)捏造した仮構をおしつける必要があるという悲観的な結論になっていて、これもまた「方法としてのナショナリズム」の困難を示している。

中島岳志『日本右翼再考』。保守と右翼の違い。理性に基づく設計主義を疑うのは共通。前者は「漸進的改革によって秩序と維持と安定を図る立場」、後者は「理想の過去に対するユートピア志向」。設計主義的右翼の登場と挫折。その反動としての原理的右翼の「体制の論理」化とそれによる凋落。

高原基彰『日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯』。主に韓国側の事情を説明して、日韓に共通する左右のねじれ問題を解説している。分断国家である韓国では「国家主義」と「民族主義」が一致しないのが日韓両国の大きな違い。でも、保守派が開発主義」政策をとり、進歩派がそれに反対してきたのは共通。進歩派であるはずの金大中、盧泰愚が経済的には新自由主義政策をとった。新自由主義による流動性と不安感の高まりによって「開発主義」に対するノスタルジーが発生し進歩派に対する反感がうまれているのも共通。関連して、芹沢一也『<生の配慮>が枯渇した社会』では、日本において、社会民主主義的な福祉制度が発達せず、個人、家族、企業の自助や相互扶助にまかせてきた「伝統」が語られる。

思ったのは、「個人」というものが普遍的に存在すると思えるからこそ公共性というものがありえるのではないかということ。独断や思い込みをまじえてかもしれないけど、「個人」全体の集合を想定して、「わたし」ではなくときに「わたしたち」と語るときに、その複数形にあらわれるのが公共性なのではないだろうか。だから、公共性を私的な利益や特定の共同体の利益で基礎づけるのはまちがい。このあたりもう少し深く考えてみたいところだ。

書籍として拾い読みせずに最後まで読み通したけど、ほんとうは雑誌的に気に入った部分を気に入った順序で読むのがいいのかもしれない。