ウンベルト・エーコ(河島英昭訳)『薔薇の名前』

薔薇の名前〈上〉薔薇の名前〈下〉

今年の1月にブックオフで入手した翌月にエーコが亡くなり、それから4ヶ月が経過してようやく読み終えた。分厚い単行本を手でもっているだけで腱鞘炎になりそうだった。

大昔みたショーン・コネリー主演の映画では、出来事の順番を変えて、最後にカタルシスを感じるようになっていたが、原作はまったく救いのないエンディングだった。さもありなん。

時は1327年。修道士バスカヴィルのウィリアムと見習い修道士のアドソの主従はとある会談のため北イタリアの山中にある修道院を訪れる。そこではむごたらしい事件が進行中で、ウィリアムたちは捜査を依頼される。バスカヴィルという出身地や草を吸ってときどきラリっていたりいるところが明らかにシャーロック・ホームズのパスティーシュで、ミステリーとしての要素がこの小説を貫く大きな柱なのは間違いない。当然彼らの探索は事件の犯人をさがすものだったのが、最終的には一冊の書物の探索が目的にすり替わる。そしてその目的を果たせないどころか、彼らの行動が原因となって大きな災厄がまきおこってしまうのは、単純なミステリーとしての破綻であると同時に、ウィリアムが体現していた近代的合理主義の敗北を示していてエーコの自虐的な目配せを感じる。

本来の目的である会談というのは、「キリストの清貧」を唱えるウィリアム属する小兄弟会という宗派と彼らを異端とみなそうとする教皇側が妥協点を見つけるためのものだった。。既得権益が収奪を正当化しそれに対抗して清貧を掲げ過激化する勢力が争うのは、時代によらず普遍的な構図でなんだなということをあらためて思った。エーコは執筆当時の極左過激派を念頭に置いたし、いまのイスラム過激派もこの構図の中に収まりそうな気がする。ウィリアムはそこで将来的な民主主義の可能性に言及しつつ教会権力に対する世俗権力の優位を説き両サイドからドン引きされる。会談は事件のせいで決裂する

神学上の論争はもうひとつより物語の本筋に関わる形で登場する。それは「キリストの笑い」に関するものだ。ウィリアムは当然笑いの価値を援護しようとする。それは正論中の正論なんだけど、結局まったく笑えない悲惨な結末の引き金を引くことになってしまう。

この小説は老年にいたったアドソが死を目の前にして残した手記という体裁をとっている(彼自身読んだ本の内容が混在している可能性を示唆し、17世紀にフランス語に翻訳した修道院長が手を加えているということにして、わざとテキストの信頼性を揺らがせている)。最後にアドソが書き残したことをそのまま受け取るならば、彼はその信仰をほぼ失ってしまっているようだ。

結果としてこの物語は、理性、慎ましさ、笑い、そして信仰の徹底的な敗北を描いた作品と言ってよいかもしれない。これだけ徹底的だとむしろ気持ちいい。