入不二基義『相対主義の極北』

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

「真偽や善悪などは、それを捉える「枠組み」や「観点」などに応じて変わる相対的なものであり、唯一絶対の真理や正しさなどはない」という相対主義の考え方は、基本的には賛成なのだが、現実にはびこる相対主義は、単純な現状肯定だけならまだしも、差別、おぞましい悪習、虐殺を肯定する道具に使われたり、一方では、科学的に確認されたことがらも迷信も五十歩百歩なんていいだす相対主義者もいたりして、悪の元凶とすら思い始めているが、考えてみるとそれは相対主義が徹底されていないこと、つまり1回だけ相対主義を適用してそこでやめてしまうことが悪いのだ。相対主義で今まで真実だと思っていたことがある枠組みの中の約束事にすぎないと見抜いて、虚偽だと主張する別の枠組みがありうるということを認めるのが、まず最初の段階だが、そこでストップして、どの枠組みも同等なんていってはだめなのだ。

枠組みを複数見つけ出したら、枠組み同士の比較をするフェーズに入る。いろいろな比較が可能だと思う。枠組みAは無矛盾だけど、枠組みBには矛盾があるとか、枠組みCが成立する確率は高いとか。それでたとえば枠組みAが最高だという結論に達したとしよう。ここでまた相対主義の出番だ。すぐにわかるように、枠組みAが最高なのは枠組みを比較するためのあるメタ枠組みの中での話にすぎない。枠組みBが最高だとみなす別のメタ枠組みが当然存在しうる。というところでこのフェーズは終わり。次のフェーズはメタ枠組み同士の比較だ……。以下無限に続く。

こんなふうに相対主義をとことん徹底していくと、その先には何があるんだろうか。そういう好奇心をいだいて本書を手に取った。

といいながら、入不二氏の本なので薄々わかっていたが、そういう人間的な好奇心はあまり相手にされず、極北の名にふさわしく、抽象化への道を驀進する。

ちょっとだけその道筋の概観をたどってみよう。こうして無限に拡大してゆく枠組みの連鎖こそが、「私たち」という真理や価値の判断を行う主体そのものだ。この「私たち」は無制限に拡大する絶対的な存在だが、そもそもこの連鎖=「私たち」がはじまらない「ないことよりもっとない」、「未生」の状態への可能性をはらんでいる。それは「私たち」にとって想定不可能な外部であり、だから「私たち」は偶然的な存在でもあるともいえる。また、そういう外部が存在するとみなす立場は、実在論の中でも、「実在」をとことん認識から遠いものとみなす。極限的な実在論といえる。つまり、相対主義の極北には実在論があったのだ。

どうだろう。少しでもついていけそうだろうか。ぼくは途中ほとんど迷子になっていた。空気はどんどん薄くなり温度は絶対零度に近くなり、そっちに進んでも何もないような気がしてくる。でも、どんどん進む。あるところで、こんなものが見つかったよと著者がいう。でも、まじまじとみてもそこには何もないようにみえる。ほらと著者がこちらに「それ」を差し出すと、痛みはないのに、指の皮膚が切れて、血がにじみだしてくる。著者がいう通りのものかどうかはわからないが、確かにそこには何かがありそうだという感触だけが得られた。