メルヴィル(八木敏雄訳)『白鯨』

白鯨 上 (岩波文庫)白鯨 中 (岩波文庫)白鯨 下    岩波文庫 赤 308-3

日本語圏ではあまりそういうのはないけど、英語圏には読んでいて当然とされている本がいくつかあって、聖書を筆頭に、ギリシア・ローマ神話、シェークスピア……そしてこの『白鯨」もそのひとつだ。冒頭の「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう」という言葉は有名すぎるほど有名でさまざまな文学作品でオマージュ的に使われたりテレビドラマのセリフとして出てきたりもしている。またコーヒーチェーンのスターバックスの名前は本書の登場人物のひとりスターバック[本書の舞台となる捕鯨船ピークオッド号の一等航海士]にちなんだものだ。

白鯨モビー・ディックに片足を奪い取られた捕鯨船の船長エイハブが復讐の念に駆られ、モビー・ディックを追い詰めるが、逆に船もろとも全滅させられてしまうという、ある意味とてもシンプルなストーリー(これは巻頭の登場人物の説明のところで早々と明かされてしまう)。ただ、そのストーリーが預言として成就していくところのシンボルとイメージの連鎖がものすごいし、エイハブをはじめとする登場人物たちの吐く実存的なセリフが奥深い。

あっけにとられるのは、本書の中でそのストーリーに関連する部分がかなり少ないことだ。全135章(+エピローグ)の冒頭の20章くらいまでは、物語が本格的にはじまったあとは純粋な語り手となって存在感をほとんどなくしてしまうイシュメールの小冒険譚で、ようやく出港するのが22章、実質上の主人公エイハブが登場するのは28章だ。また合間合間に鯨や捕鯨に関する博物学的または文献学的な説明を披露する章がまぎれこむ。それ以外の主要人物が登場する章だって、ストーリーの進行に意味をもつかといえば微妙で、おそらく現代の文芸誌の編集者のところに持ち込んだとしたら六分の一くらいに削られて薄手の文庫本一冊にされてしまうのではないだろうか。

逆に、そんな風にストーリーを無視して、自由自在に語ってしまうところが、現代的な気がして、1850年に書かれたとは思えない。本文の中にも言及があるが、そのころまだ日本は鎖国をしていたのだ。

個人的に鯨を殺すシーンに強く心を動かされた。メルヴィルは実際に捕鯨船員を経験しただけあって、鯨が大量の血を流しながら死んでゆくところが緻密に描かれているのだ。捕鯨に反対する声に対し、ビフテキばくばく食べながら何言っているの、という指摘は正当だし、ぼくも論理的にはその通りと思うんだけど、より大きなものの命を奪う方が罪深いという迷信を思わず信じてしまいそうになる。『白鯨』が書かれた時代のように、人間の方も命をかけていたときは、まだ正々堂々とした勝負の結果としてその死に様を見ていることができたが、いったん人間が優位に立ってしまってからは、だんだんつらくなってきてしまったというのも、だんだん捕鯨が行われなくなっている理由のひとつなのだろう。