高原基彰『現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ 』

現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

長引く不況からなかなか回復できず、さまざまな問題が山積する現代日本社会。そうなった経緯や背景が共有されないまま、ぞれぞれの立場に応じた被害者意識ばかりが増長し、一部には何の根拠もない陰謀論や妄想がまかり通っている。本書は、ここ数十年の歴史を振り返ることで、そんな現状を理解するための展望を与えてくれる本だ。

まず、世界的な動きをみておくと、第二次大戦後、東側の社会主義諸国への対抗という面もあり、西側諸国は福祉国家の構築に向かうが、1973年前後の石油危機やそれに伴うアメリカの政策変更により、福祉水準を切り下げ、雇用を流動化させる新自由主義な政策へと舵をきる。

日本は戦後高度成長が始まる頃から、「日本的経営」(終身雇用、従業員福祉への配慮)、「自民党型分配システム」(公共事業による中央から地方への分配)、『日本型福祉社会」(核家族を前提とし、夫が安定した雇用から収入を得て妻子を養い、妻が家事、介護など家庭内の仕事を行う)という3本の柱からなるシステムで運営されてきたが、1973年の転換は、福祉の費用が安上がりですむという利点から、むしろこのシステムを強化する方向に働き、「超安定社会」とでも呼ぶべき社会を生み出した。

そして、このシステムを日本独自のすばらしいものであると礼賛する「右バージョンの反近代主義」と、その不自由さを批判する「左バージョンの反近代主義」[あまり「反近代主義」という用語にはこだわらなくてよくて、裏表の関係というところに意味がある。]という対照的な政治的な立場が生まれる。後者は結局のところ「超安定社会」が存続することを前提にしたものであり、個別的利己主義をめざす、着地点のない「見果てぬ夢」をみているようなものだったと、筆者は手厳しく指摘する。これら二つの立場の間には実質的な対立点はなく、外交、国防、アジア問題等、実質上選択肢の幅が狭い問題について象徴的な論争をくりひろげているだけで、同じコインの裏表のようなものだった。

バブルがはじけ不況に突入して何年かがたつと、もうこの「超安定社会」ではたちゆかないことがはっきりしてくる。そこで諸外国に比べて30年近く遅れて登場するのが、小泉政権のおこなった新自由主義の政策だ。この政策は一部効率化をもたらしたが、もともと会社と核家族に福祉を頼ってきたつけで、若い世代を中心に「安定」からこぼれ落ちてしまった貧困者を生み出し、社会問題化した。

現状は、新自由主義に対する反省から、ノスタルジックに「超安定社会」の復活を願っている人たちが増えているが、もともとこれは画一的な社会構想に基づく不平等な身分制の社会だったし、偶然の産物だった。今更戻ろうとしても戻ることはできない。かといってかつてそれに対抗する軸だった「自由」という理念も「安定」が崩れ新自由主義の嵐が吹き荒れた後では、意味をもたなくなっている。

という過去にあったどの道も行き止まりになっている姿が現状の見取り図だ。だが、こうして歴史的経緯をたどることで、とても見通しがよくなって目の前が明るくなった気がする。最後に筆者は次のように締めている。とてもよい文章なので引用する。

ここに至るまで、日本人は多大な自国民の人名を失い、周辺国に深い恨みを買い、反省し、豊かにはなったが古い共同体を失い、、その後も夢を見ては裏切られてきた。これらすべてが、非西洋において近代化を成し遂げ、幾度かの大きな過ちを経ながら、、百余年をかけて日本人が得た、他国に前例のない経験知である。ここに到達したことに、日本人は絶望するのでも、他者を羨んだり蔑んだりするのでもなく、誇りと自信を感じながら、熟慮と討論を重ね、手探りで前進すれば良いのである。

結構目から鱗のことが多かった。今の日本が良きにつけ悪しきにつけこういう姿なのは、過去の(少なくとも当初は)意図的な政策の結果なのだ。翻れば、これからとる政策がこれから何年もあとの日本の姿を決めていくということで、政治はほんとうに重要だと思う。

用語が専門的で独自だったりするのが玉に瑕だが、できるだけ多くの人に読んでもらいたい本だ。