丹治春信『クワイン -- ホーリズムの哲学』

<img src=“http://i1.wp.com/ecx.images-amazon.com/images/I/515NsVTrPQL._SL160_.jpg?w=660" alt=“クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)” class=“alignleft” style=“float: left; margin: 0 20px 20px 0;”” data-recalc-dims=“1” />

日本では、アクロバティックな言葉のパフォーマンスをくりひろげる、フランスを中心とした大陸系の現代哲学ばかりが紹介されてきたけど、それとは別に、英米ではもっと地道に、言語や論理についての研究が進められてきた。分析哲学あるいは言語哲学と呼ばれる分野だ。

もともと数学や論理学が好きだったぼくは、自然とそちらの分野にかする本を読んだりしていたが、そうすると必ずといって登場するのがこのクワインの名前だった。ずっと気になっていたので、どういう業績をあげたか知りたくて、本書を手に取った次第。

クワインは1908年に生まれ2000年に亡くなったアメリカの哲学者で「ホーリズム」という立場を唱えたことで知られている。ホーリズムについて触れるには、まずそれ以前分析哲学の世界で主流だった論理実証主義について触れなくてはいけない。

論理実証主義は20世紀初頭のウィーンで起こった哲学の革新運動である。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の衝撃などを背景に、「哲学問題」というのは世界のあり方の問題ではなく、それを語る言語の側の問題ではないか(「言語論的転回」)という提起をして、従来の観念的な形而上学が無意味であると断じる一方(「語りえぬものについては沈黙しなければならない」)、世界について語る明晰で確固とした体系を作り上げようとする。つまり世界のほとんど(すべてでないのは無意味であるとして排除した部分があるため。たとえば、人間の心の中の観念)を明晰な言葉で記述し尽くそうとしたのだ。ナチの台頭にともない、この運動は英米に場所を移し、冒頭に書いたような状況がうまれる。

クワインも当初論理実証主義を奉ずる一員だったが、「経験主義の二つのドグマ」という論文で袂を分かち、クワイン独自の、のちに「ホーリズム」とよばれる考え方を提唱する。論理実証主義は、すべての命題は分析命題(文字面だけで真偽が決まる命題)と総合命題(体験により真偽が決まる問題)に分けられると考えていたけど、クワインは分析命題という概念そのものが循環論法を引き起こしてしまうことを示し、残る総合命題もそれ単独ではいくら体験を重ねてみても真偽は定まらず、複数の命題をまとめた信念の体系全体として真偽を判断するしかないということを示した。

言葉単体に固定した意味などなく、ほかの言葉との関係で意味が定まると考えるとわかりやすいと思う(正確には「意味」ではなく「真偽」なんだけど、とりあえずこう考えた方が直感的でわかりやすい)。たとえば「A社の製品は洗練されている」という文の「A社の製品」にどんなものが含まれるかは他の文を参照する必要があるし、「洗練されている」というのもほかにどんなものが「洗練されている」ことになっているのかで意味が定まる。論理実証主義は、アプリオリな事実や体験という基盤で意味が定まるとしていたけど、ホーリズムでは文同士が相互依存的にその意味を支え合っているようなイメージだ。

返す刀でクワインは、いくらデータを緻密に集めても、それらから帰結する理論は複数ありうること(理論の決定不全性)と、複数の言語の間で翻訳を行う規則もまたひとつに定まらないこと(翻訳の非確定生)を示した。

また、伝統的な哲学の課題である存在論(何が存在するといえるのか)と認識論(いかにして認識がなりたつか)についてもコミットしていて、前者については「われわれが肯定する文の一つ一つについて、それが真となるためには、量化の変項が及ぶ範囲の中に含まれていなければならないもの」というぶっちゃけ、あるということになっているものがあるというようなことをいい、後者については、自然科学の成果を積極的に利用して、人間の認識は普遍的なものではなく、進化の中で偶然的に獲得したものにすぎないという自然主義な見方を示した。

ここまでが本書に書かれていた彼の業績をぼくなりにまとめたものだ。

明らかに相対主義的、分析哲学界のポストモダンといっていいのではないだろうか。だからといって、なんでも疑ってかかれというような懐疑主義ではないし、真実は決してつきとめれないというような悲観主義でもなく、クワインは、アメリカ人らしくあくまでプラグマティックに、コミュケーションできていればそれが正しいというようなことをいっている。

さて、本書は入門書だし、ぼくはそれすら完全に理解できたわけではないのに、こんなことを書くのもなんだが、クワインの理論はクワインの信念の範囲では完全に正しい。が、ぼくにはその外側があるように思われる。

ひとつはクワインの延長線上の話で、クワイン自身も実は考えていたり書いていたりするのかも知れないが、言語とか信念の体系はもっとダイナミックに常に変更されているものだと思う。極端にいえば、ひとつの文を使っただけでも、その瞬間に微妙に意味が変化するし、まして他の言語との間に翻訳の方法がいったん確立してしまえば、それは二つの言語をあわせた新たな言語が誕生したといってもいいほどの変化を双方にもたらすと思う。このあたりの話をクワインの理論がとらえられているのかが気になる。

もうひとつは、論理実証主義者が『論理哲学論考』に書いてあるのにあえて無視した問題-—独我論だ。クワインも当然のように無視した。確かに他人の心の中は形而上学だが、自分の心は体験できるものなのだ。それはほんとうに無意味といって切り捨ててしまっていい問題なのだろうか。日本では永井均が「この私」という表現を使って、この問題を引き継いでいる。クワインが切り開いた地平から、永井均の議論をあらためて眺めてみると、より深く理解できるような気がする。