マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう 今を生き延びるための哲学』

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

あなたは路面電車の運転士で、ブレーキがきかないことに気づく。前方には5人の作業員。待避線に入れば5人の命は助かる。だが、そちらにも作業員が1人いる。あなたはまっすぐ進むのと待避線に入るとのどちらを選択すべきか。あるいは、あなたは同じ事故を目撃している傍観者で、橋の上にいる。今度は待避線はないが、目の前に太った男がいる。彼を橋から突き落とせば1人の犠牲ですむ。その行為は正当化されるのだろうか?

正義、すなわち、われわれは何をなすべきかということを考えるには、やはりこんなふうに実例をベースに考えないと結局空理空論で終わってしまう気がする。本書にはたくさんの実例が収められている。日本の状況に即したものばかりではないが、十分理解できるものばかりだった。おかげで、自分自身の正義の基準がいかにあいまいかということに気がつかされた。

まず、今比較的受け入れられている正義の基準となる考え方がいくつか紹介される。ひとつは功利主義。「最大多数の最大幸福」というやつだ。ある意味多数派絶対主義だし、原理的に解釈すれば、冒頭に挙げた例で、太った男を橋から突き落とす行為は正当化される。そして、リバタリアニズム(自由至上主義)。自分(財産を含む)は自分のもので、その権利(自己所有権)は不可侵であるという考え方。国家は防犯、国防など最小限の機能にしぼるべきで、再配分などもってのほか。恵まれない人にお金を配分する必要は認めるが、自らの意志で行うべきだという。また、自分の身体をどのように使おうとも自由なので、生きている間に腎臓を二つとも臓器売買することさえ認められる。

原理的につきつめれば功利主義もリバタリアニズムも現代の一般人の感覚からすると受け入れがたくなるということが示された後、続いて、現代の道徳的立場のひとつの雄リベラリズムを基礎づけるカントとロールズの正義に関する考え方が紹介される。

カントは、自由を道徳の基礎として位置づけた。ただしカントが呼ぶ「自由」とは、理性が欲望や快・不快などの感情からの自由、つまり理性が自律的に判断できている状態をさす。誰にでも適用可能な普遍的なものでなくてはいけないし、人間性そのものを目的としなければいけないという縛りはあるものの、個人は「自由」に自らの道徳法則を選び、それに厳密に従わなくてはいけないとカントはいう。

ロールズは、さらに「無知のベール」という概念を導入する。各人が、自らの社会的地位や能力を知らないと仮定するのだ(SF的な表現を使わせてもらうと、すべての平行宇宙における自分に配慮するということ)。その場合選ばれる正義の原則は成果の分配に最大限配慮した平等主義的なものになる。

さて、ここまで紹介した正義の基準は何が善かという価値の内容に踏み込まず、中立的な立場からよりどころを見つけようとするものだった。しかし、サンデル教授のみるところによればそれは成功しないという。どうしても、名誉、徳といった概念と正義を切り離すことはできないというのだ。そこで、紹介されるのが古代ギリシアのアリストテレスの考え方。目的論、すなわちある存在の目的がわかれば、自ずと正義は定まるという考え方だ。たとえば、笛があって、それを誰に与えればいいかという問に対して、アリストテレスは笛を一番上手に吹ける人だと答える。都市国家の目的は市民を善良で公正な者とすることだ。その観点から都市国家における正義は定まるという。

そして、ようやくサンデル教授自身の道徳に関する考え方が紹介される。流れからわかるように教授は、近代の哲学者が退けたアリストテレス的な目的論をとる。美徳や名誉こそが人間の目的であり、そこから正義が定まるというのだ。ではその美徳や名誉はどういうものなのか。それを語るのに、マッキンタイアという哲学者の、人間は自らの物語を生きる存在であるという考え方を紹介する。この物語は自分だけで作りあげられるものではなく、過去から脈々と続くコミュニティーの物語の一部である。いわば、この物語を完成させることが人間の目的だ。そして、これまでの 1.普遍的で合意を必要としない自然的責務、2.個別的で合意を必要とする自発的責務、という2種類の道徳的責任に加えて、美徳や名誉が関わるところの、 3. 個別的だが合意を必要としない連帯の責務、というものが存在するといい、いくつか例をひきながら、家族や同胞に対する特別扱いや愛国心をこの3番目のカテゴリーの正義としてあげている。

この部分は、本書のほかの部分の的確な語りに比べると、もったいぶっていて、論拠が弱く感じた。まず、ステートとネーションをごっちゃにしているようで、ステートには自国民保護という明確な目的があるが、それはネーションの道徳とは別の問題だ。また、人が属するコミュニティーは一つではないし、複雑にからみあっている。いいかえれば、ひとりの人間は複数の物語に違う役柄で登場する。コミュニティーと個人のかかわりも自明ではなく、誰が(どの程度)コミュニティーのメンバーなのかというメンバーシップ問題が常に発生する。またその関係は、実は互恵的な交換の原理が基盤となっているもので、暗黙であってもなにがしかの合意がなくてはいけないのではないか。親に虐待された子供が、親をかばうのはむしろ悪だと思う。さらに、連帯の責務とここで呼んでいるものの範囲を拡大して自然的な責務というか人権という概念が生まれたのであって、わざわざ別に掲げるようなものではないような気がする。逆に自然的な責務を部分的に(実際ほとんどの場合そうすることになる)適用すれば連帯の責務になるのだ。

5人の見知らぬ人の命を見捨てて自分の家族1人の命を助けたとしても、全然悪いことだとは思わない。でも、それを正義の名で呼ぶ必要はないんじゃないだろうか。

最後に、善良な生活とは何かという論議なしには公正な社会はありえないという主張でしめくくられる。本書では紹介されなかったが、リベラリズムの理論的支柱の一人ハーバーマスに通じるような結論だ。この部分はぼくも共感できる。

サンデル教授の道徳的立場に名前をつけるとコミュニタリアニズム(共同体主義)ということになると思う。日本でいうといわゆる保守派の主張に重なる部分も多いけれど、こうして論理的に語ってもらえば、結構納得できることもある。少なくとも、どこに同意してどこに同意しないかというということが指摘できるし、妥協点も見いだせそうな気がする。

翻って自分の道徳的立場を見直してみると、カントが一番近いかな。ただし、原理的にはリバタリアンで、功利主義的に、人類というコミュニティーの伝統としての人権概念を受け入れるという立場。そして、個人的には善良な生活を目指していて、ある程度そこには普遍性があると思っている。