野矢茂樹『哲学・航海日誌 I・II』

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

平易な(ときによって必要な程度に入りくんだ)言葉を読んでいるうちに、いつの間にか哲学的な思考の深みへと連れて行ってくれる本。得てして、そういう深みは、神秘のヴェールに隠されて結局よくわからないままだったり、抽象的すぎて不毛だったりするものだが、本書では、たくみなバランス感覚とでもいおうか、うんそこだよな、という場所に連れて行ってもらえるのだ。

大きく4つのパートにわかれている。

「他我問題」では、結局他人のことはわからないという懐疑を、「眺望点」というたくみな比喩を使って、のりこえる。つまり、他人のことはある程度わかるのだ。

「規範の他者」では、根源的規約主義という、規則でも言葉でも、そこに実体的な意味があるわけではなく、適用や使用の度に都度取り決められるという、文字通りラディカルな立場が紹介される。ただし、ふだんは盲目的に規則に従っているだけなので、規約は表にあらわれてこない。他者との間で不一致があったときに、はじめて規約や意味というものが顔を出すのだ。知覚においてもそうで、ふつうはそのときの文脈に応じて認識するだけだけど、アスペクト把握といってその認識の文脈「〜として見る」を選び取るような場合もある(それができない人のことをアスペクト盲と呼ぶ)。「心」というのは、指示対象は共有しているけど、アスペクト把握が異なる場合に、その違いを吸収するしくみのことだと、筆者はいう。

「行為の意味」では「意図」について述べられる。ここでは「意図」は行為の原因ではなく、「可能な障害と調整の物語」のことであり、社会的で事後的なものなのだ。このあたり、最近読んだ前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』に通じている。

そして最後の「他者の言葉」はコミュニケーション論。「共同体から切断された個人言語という想定も、そしてまた個人が決してそこから逃れることのできない共同体の言語という想定も、ともに幻想である。他者は私から逃れ、私もまた他者の他者としてそこから逃れる。逃れつつ出会い、再び合流する。この運動こそが、共同体によって形作られる個人と、個人によって形作られる共同体の姿なのではないだろうか」と本書はしめられる。