カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『わたしを離さないで』

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

エナメル質が削り取られて神経がむき出しになった虫歯のように、身も蓋もなく悲しい喪失の物語。

物語の核心にある謎というわけでは全然ないので、決してネタバレにはならないと思うのだが、この作品について触れる人は、物語の状況設定を書かないことが不文律のようになっているようなので、ぼくもその顰みにならう。

このテーマを扱うのならば、社会派のヒューマンドラマの要素を盛り込んで、主人公たちの非人道的な境遇に対する怒りをてこにすることもできただろう。あるいはもっとドラマチックなエピソードや詩的な表現をとりまぜて読者にカタルシスを与えることもできただろう。でも、カズオ・イシグロどちらの方法もとらない。主人公の視点によるきわめて抑制された語りが、喪失の体験を積み上げていく。

終盤、難破した船を見に行く印象的なシーンがあるんだけど、どこにも航海することのできない船は、主人公たちの運命を象徴している。彼らには未来はなく、そして過去も奪われてしまったのだ。

まったく救いはないんだけど、奇妙な温かさがあって、その温かさにすがりつきたくなるような作品だった。

タイトルになっていて、作品中でも重要な役割を演じるジュディ・ブリッジウォーターの “Never Let Me Go”。どんな曲かと思って検索してみた。予想と違って場末のキャバレーでかかってそうな曲だけど、甘すぎるセンチメンタリズムが小説の世界観と対照的で、不思議にマッチする。

★★★★