柴田元幸『翻訳教室』

翻訳教室 (朝日文庫)

数え切れないくらいの本を翻訳されてぼくもさんざんお世話になっている翻訳家にして大学教授の柴田元幸さんが、東京大学でおこなった翻訳演習の授業を本としてまとめたもの。授業は、文庫本にして1ページから2ページくらいの課題の英文をあらかじめ学生たちが訳してきて、それをベースに教師と学生たちが議論しながらよりよい翻訳にしあげていくという形をとっている。

趣味というのもおこがましいが、ぼく自身ときおり翻訳にチャレンジしたりもするので、訳す上での大まかな指針から、訳語の選び方的な細かい話まで、逐一参考になった。例えば、主語と述語をそんなに離さない、文の途中でなるべく主語をかえない、原則、原文の語順通り訳す、原語の重みとつりあうくらいの訳語を選ぶ(特別な表現は特別な表現に、軽い言葉はさらりと流す)。訳語の方では desperate は「絶望する」ではなく「やけをおこす」だし、hurt は「傷つける、怪我をさせる」ではなく、「痛い、痛くさせる」と訳すことの方が多い。読点の位置や助詞の選び方などの指摘もあり、翻訳にしばられず、日本語で文章を書く上でも役立ちそうだった。

課題に選ばれている作家も絶妙で、訳されたものを読んであまりぴんとこなかったステュアート・ダイベックのよさが原文を垣間見て少しわかるような気がしたし、ヘミングウェイのヘミングウェイたる由縁、ハードボイルドというのはこういうことなんだというのもわかった。そしてリチャード・ブローティガンの原文を読んで藤本和子訳のすばらしさを再認識した。

村上春樹がゲストでやってくる回があって、その回だけは翻訳なしで、小説家であり翻訳家でもある村上春樹に対する質問コーナーだった。集中力は体力という話が身につまされる。

★★★