スピノザ( 吉田量彦訳 )『神学・政治論』

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)神学・政治論(下) (光文社古典新訳文庫)

『神学・政治論』の70年ぶりにでた新訳。21世紀のスピノザ主義者を自認する(間違って名付け親を頼まれたらエチカという名前を提案しようと思っている)ぼくとしては読んでおかなくてはいけないと、使命感にかられて手をだす。訳者後書きに「直訳に置き換えてしまえば五分で済むところを、半日かけて文章をほぐし、全体の文章を押さえ、その文意から許される限りの読みやすい訳文に仕上げる、という作業工程を、何度となく繰り返すことになりました」とあるようにとても読みやすい文章になっていた。

が、読みやすければ早く読めるかというとそんなことはなく、全体の四分の三は神学論、つまり聖書の解釈に関する話で、キリスト教、ユダヤ教になじみのない身としては興味を維持するのが難しく、残りの四分の一の政治論も表面上はホッブズの社会契約論の亜流にみえて目新しさが感じられず、いやあ、なかなか難儀な読書だった。難儀さの理由のひとつにはスピノザがいろいろ配慮を重ねてわざと遠回しにもったいぶった書き方をしていることがあると思う。そうでなくてもスピノザは名言といわれるような鋭い言葉をつかうタイプの哲学者ではない。どちらかという不器用ながら丁寧にくどくど書いてしまう方だ(そこは親近感感じる)。

本書で紙幅を費やされているのも、神学論は、聖書の各巻の細かい記述とか、筆者が誰かということとか、成立経緯についてのことで、政治論も、一見、国家の無制限の権威を認めて返す刀で宗教的権威の制限を訴えているところが目につく。スピノザがそういう書き方をしなくてはいけなかったのにも大きな理由があって、スピノザが生きた17世紀中頃のオランダは周囲と比較すれば比較的自由な国ではあったけどそれでもきつい締め付けがあって、同時代の人が無宗教的な書物を出版したかどで投獄され獄死しているのだ。

実際、スピノザが言いたかったのは、聖書については、文字通りにすべてを受け取ってはだめで、「隣人愛」と「正義」という二つの道徳を尊重することを誰にでもわかりやすく説いた本として扱うべきだとことと、政治については、思想と言論の自由を認めても国家の運営にはよい影響しかない、というか認めないとゆくゆく国家は滅びてしまう、逆にそういう自由を認めるためにこそ国家は存在する、という当時としてはかなり過激なことだ。

現代に生きる人間からすれば当たり前以上に当たり前なことであると、言い切ってしまいたいところだが、昨今あやうさを感じることもあり、スピノザはこれからも読み継がれていかなくてはいけないと思う。長いスパンで考えて、この時期に新訳がでるのはとてもタイムリーだったのではないだろうか。

今これを書いている現在イスラエルとハマスの戦闘が続きイスラエルのガザ市民に対する一方的な虐殺の様相を呈してしまっているが、スピノザが自分の祖先であるヘブライ人(今のイスラエル人)について書いているところがあるので引用しておこう。今の状況を予言しているかのようだ。[第17章22段]

ヘブライ人たちの祖国に対する愛とは、したがって単純な愛着ではなく、ある種の道徳心であった。それは他民族への憎しみと一緒に、日々の礼拝によってぬくぬくと育まれ、ついには彼らが元から備わった性質のようなものになってしまったのである。(中略)

このように、来る日も来る日も、[他民族に対する]何らかの非難を続けていれば、そこからいつまでも続く憎しみが生じるのは当然である。彼らの心に他の何よりも固く根付いてしまったのが、この憎しみだった。それは「神への」並外れた奉仕心、言い換えれば道徳心から生じた憎しみであり、そのような憎しみはみな道徳にかなったものと思い込まされていたからである。これ以上に大きな憎しみも、これ以上に執拗な憎しみも、まずありえないだろう。

また、原因としてはありがちのものだが、その憎しみを絶え間なく大きく燃え上がらせていく原因にも事欠かなかった。憎しみのぶつけ合いである。[ヘブライ人から憎まれた]他の民族の方も、お返しにヘブライ人たちを猛烈に憎むことになったのだ。