エミリー・ブロンテ(鴻巣友季子訳)『嵐が丘』

嵐が丘 (新潮文庫)

古典らしくない古典だった。なんというかふつう古典には普遍的で背筋に響く力強さがあるのだが、この作品はとらえどころがなくて単純な理解をすりぬけてしまうのだ。ストーリーにも描写にも難解なところはどこもない。

気まぐれに鶫が辻という場所の人里離れた田舎屋敷を借りたロックウッドという男が、嵐が丘という場所にある大家の家をたずねてみると、人嫌いの大家の男ヒースクリフと彼の亡くなった息子の妻だという美しい娘、そして彼女の従兄でがさつな若い男という家族構成で、奇妙な緊張感と沈黙に支配されていた。ロックウッドは悪天候でその家の一部屋にとまることになる。そこで彼はキャサリンという女性が残したノートを目にし、彼女の悪夢にさいなまれる。鶫が辻に戻ってから彼は家政婦のネリーに嵐が丘と鶫が辻に住んでいた二つの家族にまつわる物語をきく。

嵐が丘のアーンショウ家の娘キャサリンと拾われ子のヒースクリフの愛、かなわなかった愛の復讐にもえるヒースクリフ。ただこの愛と復讐は一直線ではなくどこかずれている。ひとつにはこの『嵐が丘』の世界にはセックスがないからだと思う。セックスは描かれないだけでなく(それはこの作品が書かれた時代的にあたりまえだが)、比喩や気配としても存在しない。子供はなんのきっかけもなく突然生まれる。そんな世界だ。セックスがないせいで、キャサリンのヒースクリフに対する感情は男女の恋愛以外の何かに思える。ヒースクリフの復讐はキャサリンに向かうことは決してなく、その矛先は執拗ではありながらどこに向けているのか終始微妙だ。単に暴走しているようにもみえる。

もうひとつ感じたのは命の軽さで、登場人物はみなあっけなく死んでしまうのだ。でもそれはこの小説世界が特殊なわけじゃなく、ほんとうにみなあっけなく死んでいたのだろう。エミリー・ブロンテの姉2人も結核で相次いで死んでいるし、エミリー自身も30歳の時に兄の葬式で風をこじらせて死んでしまったのだ。そんなあっけなさに反して、ラストのヒースクリフが笑いを浮かべたまま死んでいるシーンは、この作品を古典たらしめている力強いシーンだった。

そんなこんなで感情移入できるような登場人物はひとりもいないし、そのくせなぜか夢中になってしまう不思議な読書体験だった。