東浩紀『動物化するポストモダン―オタクからみた日本社会』

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

『自由を考える』は対談だったので、東浩紀の考えをいまひとつとらえきれなかった。その物足りなさを補うためこの本を買った。

内容はオタク系(サブカル系)の文化を分析して、そこから90年代以降の現代日本社会が向かっている「動物化」という現象をみていこうというもの。論旨を簡単にまとめてみる。

共同体に属する個々人に帰属感・一体感を感じさせるための「大きな物語」が凋落して、70年代を境にばらばらな多くの「小さな物語」からなる「ポストモダン」の時代がはじまった。「ポストモダン」ではオリジナルとコピーの区別が失われて、「シミュラークル」というどちらともつかないものが増殖する。筆者はこの原因を、「大きな物語」に代わって、人物や事物の設定・属性を管理・記録する「データベース」という層ができたからだと考える。その設定や属性をクエリーしてフェッチすることにより、組み合わせの数だけ、「シミュラークル」が作成できるわけだ。

さて、オタク文化の芽生えた70年代から80年代くらいまでは、「あえて」価値のない虚構に意味を見出すという「スノビズム」、そして、世界の実質的価値を信じないので「だからこそ」形式的価値を信じるふりをやめられないという「シニシズム」がオタクたちを「シミュラークル」に向かわせていたが、90年代以降はもうそういうものの助けは必要なく、オタクは「シミュラークル」そのものに対して「欲求」する。それが「欲望」ではなく「欲求」と呼ばれるのは、「欲望」というのは「他者の欲望を欲望する」(例:嫉妬)という人間的なものであるのに対し、「欲求」は欠乏と満足というサイクルを繰り返すだけだからだ。こういう状態を筆者は「動物化」と呼んでいる。かろうじて残された人間的な「欲望」はデータベースに向けられ、そこから数多くの「シミュラークル」を生み出す。

感想。

ぼくはメンタリティとしては完全にオタクだが、その矛先が向く対象が違うので、オタク的文化がなんとなくどういうものかは理解しているつもりだが、固有名詞レベルではわからない。そういう中途半端な立場で読むと、物珍しさも、親しみも中途半端になってしまった。また、今回「動物化するポストモダン」というテーマでなぜオタク的文化が選ばれたかというと、論じやすさということだと思う。「動物化」という現象はオタク的文化に如実にあらわれているからだ。ただ、それが犯人のわかっている推理小説を読むような単調さにつながってしまった。

というわけで、本としての楽しさはいまひとつだったが、「データベース」、「動物化」という分析はとても鋭いと思う。当然、オタク的文化だけでなくあらゆる社会現象に使えるもので、たとえば野球なんかは「データベース」の最たるものだろう。優勝という「大きな物語」を経験してから、ちょっと前までの阪神ファンはあきらかに「スノッブ」=「シニシスト」だったが、今は「動物」といえるかもしれない。

さて、こういう「動物化」という現象はいいことなのか悪いことなのか。筆者は個人的には歓迎しないけど、不可避なものだと考えているようだ。ぼくの意見をのべさせてもらうと、「欲望」などという厄介なものを持たなくてすむ「動物化」は歓迎だ。ただ、「シミュラークル」に安易に感動してしまう単純さは、すべてを感動できるものと感動できないもののどちらに分類することになる。それはある意味イデオロギー的な役割をもっているのだけど、感動できるというのはコミットすることとはちがって自分をそれに同一化したりはしないので、批判しても「それが何か」といわれて終わってしまう。そんな状況があるとすれば、それはそれで困ったものだと思う。

★★