G.ドゥルーズ(鈴木雅大訳)『スピノザ 実践の哲学』

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

共通一次試験などと書くと年がばれるけど、受験勉強の時倫理社会の教科書にでてきた思想家の名前で一番印象に残っているのはスピノザだ。何となく可愛らしい名前だからかもしれない。とはいえ、この本を読むまでは、スピノザってモナド論?というようにライプニッツと取り違えているようなありさまだった。

スピノザの思想をひとことでいうと、すべては神、ということになる。あるいはただ神だけが存在するといった方が正確だろう。つまり、今ぼくがカチャカチャたたいているキーボードも神の一部、ひとりひとりの人間も神の一部、地球も太陽も神の一部なのだ。しかも、通常の宗教における神のように人間的な意志に基づいて創造を行うのではなく、創造は「自己原因」という言葉が示すようにある意味自動的・機械的なプロセスとされている。それなら神と呼ばずに「宇宙」と呼んだ方がわかりやすいようなものだが、物質的な世界(延長)だけでなく観念の世界(思惟)までも含めたただ一つの存在ということを示しているのだろう(人間に認識できるのは延長と思惟だけだけど、ほかにも無限に世界はあるらしい)。

この前提から出発して、スピノザはいくつか意外な結論を導き出している。たとえば、人間には自由意志などない。まあ、神にないのだから人間にあるはずもないが、要するに、自由意志の前提となる意識というものは他の存在から影響を受けることによって生まれた結果にすぎず、人間は本来の原因を知ることができないから、それを原因だと思ってしまうのだ。次に、道徳的な善悪など意味がないといっている。神がアダムにエデンのリンゴを食べてはいけないといったのは、食べるとおなかをこわすという意味であり、道徳的に禁止したわけではない。ただし、善悪はないけど、自分にとってよい/わるいという区別はあるので、わるいものと出会ったときに起きる「悲しみの受動的感情」と呼ばれる感情を否定している。それには、悲しみ、憎しみ、恐れ、憐れみ、良心の呵責のほかに、希望や安堵さえも含まれてしまう。

スピノザはユダヤ人で、ユダヤ教会から破門されたそうだが、それも当然だろう。単なる無神論者よりたちが悪く、神という概念を使って果てしなくラディカルな思想を生み出している。

スピノザの思想ではなく、この本に話をもっていくと、おそらくスピノザ自身の著作である『エチカ』を読むよりはこちらの方がわかりやすいと思うが、それでも読むのに骨が折れた。何より「属性」、「力能」、「様態」などの言葉を理解するのが難しい。一度わかれば、数学やコンピュータの本を読んでいるようにばらばらの概念がつながっていく快感を味わうことができるのだが。

スピノザは、受動的な認識からはじまって、よいものと出会うことを繰り返していき、ついにはすべての本質を理解する能動的な認識に達することが目標だというようなことをいっているのだけど、スピノザの思想そのものが、そのよいもののひとつの例になっているような気がする。なぜか、読んでいるととても気持ちがいいのだ。それがつまり「実践の哲学」ということなのだろう。

★★★