『友達』

『友達』

作:安部公房、演出:岡田利規/シアタートラム/指定席4500円/2008-11-22 19:00/★★

出演:小林十市、麿赤兒、若松武史、木野花、今井朋彦、剱持たまき、加藤啓、ともさと衣、柄本時生、呉キリコ、塩田倫、泉陽二、麻生絵里子、有山尚宏

夜。一人暮らしの男がノックの音に応えると、9人家族の一団(祖父、父母、三人息子、三人娘)が部屋の中に入り込んできた。彼らは孤独な彼を助けるためにここにきたという。最初は警察に連絡したり抵抗する彼だが、少しずつ妥協を重ね、彼らの支配下に入ってゆく。やがて恋人を失い、自由を失い、そして命さえ……。

謎の家族と男の勝負を分けたのは、「言葉」だ。家族たちが誰にきかれても男を助けるという明確に自分たちの目的(もちろんそれは嘘で彼らは単なる寄生人間なのだけど)をはっきり言葉にできたけど、男は恋人に対しても誰に対しても自分のおかれている立場をうまく説明できなかった。しかも彼は彼らの言葉に逐一反応する中で、自分では取引と思い込んで、一方的な妥協を重ねてしまっていた。たぶん、彼は彼らの言葉を徹底的に無視すべきだったのだ。

終盤、あなたが反抗さえしなかったらわたしたちは単なる世間にすぎなかった、家族の次女がいうように、この家族は日本社会の実質的独裁者であるところの世間様のメタファーのような気がする。その世間が家族という形をとってあらわれるところが意味深だ。個人の自立は「家族」によって徹底的に妨害されるということなのだろうか。アメリカでヴォネガットが “lonesome no more"といって拡大家族という仕組みを提唱した10年前に、日本で安部公房がその拡大家族的なものによる悪夢を描いていたわけだ。

ほかの安部公房の小説もそういうところがあるけど、この戯曲は、シチュエーション設定だけが突飛で、あとはそのラインにそって直線的に話が進んで起伏に乏しいかった。それでちょっと後半退屈してしまった。

岡田利規の演出だが、今回はチェルフィッチュ的なくりかえされる身体の動きはあまりでてこなかったが、観客に語りかけるスタイルは採用されていた。そういう演出上の工夫や役者の力はかなりよくて、戯曲の一本調子さをカバーしていたと思う。特に、父親役の若松武史さんはとにかく自由で、こんな自由でいいのかというくらいのたがのはずれかたで楽しませてもらった。これが演出だったらすごい。