夏目漱石『私の個人主義』

私の個人主義 (講談社学術文庫 271)

漱石が満州で行った幻の講演の内容が明らかになったというニュースが耳新しい今日この頃、ではまずとうの昔に発見済みの講演を読んでみようと思った。

収録されている講演は5編。最後の『私の個人主義』は1914年すなわち漱石の死の2年前に学習院の学生向けに行われた講演、そのほかは1910年に関西で一般聴衆向けに行われた講演である。

『道楽と職業』では、職業の分業化による社会の分断、今の言葉でいう島宇宙化への懸念が述べられるとともに、一般の職業では他人本意にならなくてはいけないが、芸術家、学者などは自己本位でなければ成功しえない職業だということがいわれる。

『現代日本の開化』。開化というのは、楽しいことを最大化するという積極的な行動と、義務的なことをできる簡単にすませられるようにする消極的な行動が複雑にからんでおきる。開化が進むと、生死の問題は超越しているが、競争が激しくなって、相対的な苦しさはかえって増している。特に日本では、外発的に十倍ものスピードで開化が進んできたので、どうしても上っ面ばかりおいかけることになってしまっている。ああ、大変だけど仕方がないねという話。

『中身と形式』。中身が先か、形が先か。それは当然中身にきまっているでしょう。中身が先にあって、それをわかりやすく単純化して形式ができた。だから中身が変わったら形式も変わらなくちゃいけないんだよという、きわめて穏当に聞こえるけど実はラディカルな講演。

『文芸と道徳』。浪漫主義と自然主義という文学上の流派になぞらえて道徳を語る。明治以前は人間としてあるべき理想的な型を設定して厳格にそれに沿うように強制してきたけど、明治以後はリアルに人間を観察してその本来の姿から道徳が構成されるようになってきているという。

そして最後の『私の個人主義』。前段は、自身の若い頃の体験を披露しながら、自分の進むべき道をみつけるためにどこまでもこだわれ、というアジ演説。今ならやりがいの搾取となじられそうだ。後段が、演題にある通りの「個人主義」に関する話で、利己主義なんかじゃなくて、他者の個性に配慮して、責任をともなうもので、国家主義と矛盾するものではないと説明しながら、やんわりと国家主義の欺瞞や道徳的低級さを指摘する。

今でもそのままで通用する議論ばかりなのがすごい。漱石の立場は当時の日本ではかなり少数派で孤立を味わいもしているようだが、弾圧もされず、講演に聴衆が集まるということは、当時の日本にもそれなりに民主的な空気があり、自由を享受できていたのだろう。それが、わずか20年後に戦争の時代に突入し、完全に後戻りしてしまったのは、いずれにせよ民意があってのことのような気がする。日本人は開化により利己的になることは覚えたけど、漱石がいう個人ということは理解していなかった。たぶん、利己主義と国家主義は相性がいいのだ。

漱石の話しぶりは確信に満ちている。その確信にはやはり「近代」に対する信頼があるのだろう。その「近代」に対する信頼がゆらいでうまれたポストモダンという潮流すらどこにいったのかよくわからなくなっている現代に、もし漱石がいたら、どういう話をしただろうか。

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