Synecdoche, New York

久しぶりに息をするのも忘れるような映画をみた(DVDだが)。“Being John Malkovich”(マルコビッチの穴)、“Adaptation”(アダプテーション)、“Eternal Sunshine of the Spotless Mind”(エターナル・サンシャイン)などで有名な脚本家の Charlie Kaufman がはじめて監督した “Synecdoche, New York”(邦題:脳内ニューヨーク)という2008年の映画だ。この邦題は内容について一定の示唆を与えてくれるものの、正しく伝え切れておらず、むしろ誤解を与えかねないので、原題で呼ぶことにする。(日本語版のDVDのジャケットもひどいのでAmazonへのリンクはしない)

“Synecdoche” とは日本語では「提喩」。耳慣れない言葉だが、比喩の一種であり、全体を部分で代表させたり、逆に部分を全体で代表させたりするタイプの比喩をさす。ニューヨークの街の実物大の模型を巨大な倉庫の中で作りあげようとする主人公の無謀な企てを説明するのに、これ以上なく的確な言葉だと思う。それが Schenectady, New York という実在する町の名前のもじりにもなっている。

主人公は Caden Cotard という小さな劇団の演出家。この映画は彼の後半生を描いた年代記といっていいと思う。さまざまな病気、老い、別れ、そして孤独に彩られた半生だ。妻と幼い娘は映画開始早々に彼をおいてベルリンに旅立ってしまう。時間はほんとうに夢のような速度で流れ去っていく。起きる出来事や出会う人々もまた夢のようだ。燃える家に住む女、Caden をつけまわす巨人のような男、タトゥーの花が枯れて死にかけた娘。苦悩と困惑の中、マッカーサー賞の受賞により巨額の資金を手に入れた Caden は、模型の街の中で人々を動かし、リアルな世界そのものを再現しようとする。その中には彼自身を演じる役者、そしてその役者を演じる役者も含まれる。

一見荒唐無稽なエピソードが連続するようにも思えるが、少なくともぼくにとっては驚くくらいしっくりくる展開だったのだ。ちょうど夢の中で起きる出来事に似ている。ここでこんなことが起きたらどうしようと考えていると、それは実際に起きる。

この映画における Caden を説明する言葉が、終盤彼の代役を務めようとする女優 Millicent によって唐突に語られる。「Caden Cotard は既に死んだ人間で、均衡と不均衡の間の半世界に住んでいる。時間は濃縮されて、年代は混乱している。つい最近まで自分の立場を意味あるものにしようとやっきになっていたが、今や彼は石になってしまった」。そして、そのすぐそのあとで、この映画の表面的な意味のようなものが、劇中劇の中で今初めて登場した神父役の俳優の口からいささか場違いな感動的な演出とともに語られる。

この映画は単なるひとりの人間の半生を描くだけでは終わらない。Caden は演出をリタイアしたあと、 Ellen という掃除婦の役をあてがわれる。その実在するかどうかわからない中年女性の半生が、耳元のイヤフォン越しに、語られ、Caden はそれをもまた経験するのだ。人生、特にその悲しみが多かれ、少なかれ入れ替え可能なものであり、人は自分の人生だけでなく、多くの人の人生を同時に生きるということを示すかのように。これは、Kaufman の作品すべてに共通する人生観だ。

時刻は刻々ときざまれ、この映画のはじまった時刻 7:45 が迫ってくる。その時刻の到来とともに、映画は終わり、Caden の人生も終わる。